チームにとって受け容れることができない事実を抱えたまま、この大会に臨む事となった。
前日、いつもの宿では思い出話に花が咲く。
Dは場の雰囲気やメンバーを明るく照らす、太陽の様な存在だった。
今回は、以前Tシャツを揃えていた頃のかけっこ団Tシャツで臨む。
毎年テーマを掲げて、お揃いのTシャツで大会に参加していた。
これもDがデザインしたものである。
SOUL RUNNING 魂の走りをしよう。
今はAKとくれば次はBかもしれないが、ひと昔前はAKときたら次はDである。(我々だけ?)
ゼッケンにその日にDが付ける筈だったゼッケンナンバーと喪章をメンバー全員がつけて追悼ランとする。
数日前の雪が多く残り、当日の天気予報も雨であったが、スタート時には嘘のように雨はやみ、絶好のコンディションとなった。
きっとDが、最高の舞台を用意してくれたに違いない。
富士山マラソンのコースを走りながら、多くの思い出が脳裏を走る。
私はDに大変お世話になった。
21歳、河口湖マラソンで初フルを完走した。
その後7年間、年1回だが、一人で走り続けてきた。
1人でやるマラソンも達成感はあるが、辛い時も楽しいときも、それを共有できる仲間がいたなら、もっとランに楽しく関われるはず。という想いが常にあった。
今なら、ネットで仲間を探す事は難しくないが、当時はラン人口も今ほど多くなく、出会いの機会が少なかった。
初フルから8年目のシーズンの時、河口湖にてDが率いる「青山かけっこ団」と知り合う事となる。
Dの懐の深さや、団員の皆さんはとても優しく、そして尊敬できる部分が多くあり入団を希望した。
それ以降、辛かった大会も楽しい飲み会も、数多くの出来事を共有してきた。
そして大いに語りあった。
大学の仲間のグループに関係のない私を、昔からの友人の様に接して下さり、仲間として、とても良くして頂いた。
その時点で私がマラソンを走る事は個人競技では無くなった。
Dとの一番の思い出は、第一回東京マラソンを一緒に走った事だ。
東京マラソンは第一回から、すごい倍率だった。
私も運が良かったが、Dも大いにもっている男なのだ。
スタート前から一緒に行動し、同時にスタートラインを通過した。
Dは新宿ガード下や、皇居の内堀通りで普段走れない車道の中心を堂々と走れる事に感激していた。
約15kmで別れてしまったが、銀座の中心街を走った喜びを完走後も語りあった。
マラソンにも、仕事にもDは全力で取り組む。
どんな時も常に前向きだ。
そして、いつも とっても熱い男だった。
走りながら、なぜか次の歌が頭の中を駆け巡る。
旅人よ~The Longest Journey (作詞 サンプラザ中野 作曲 パッパラー河合)
強い風に今立ち向かって行く 遥か彼方を目指した旅人よ
いつか再び君に出会うまでは どうかどうか笑顔を絶やさぬままで
この日は走りながら、何度も汗ではない雫が頬をつたう。
残念ながら、今回のレースは ハーフ過ぎから撃沈レースとなってしまった。
脚は前に進まないが、35km地点で 「あと7km Dとゴールを共にする。」
そこからはその事ばかり考えていた。
苦しい戦いの中、感じた事がある。
この思いは距離を重ねる度に大きくなっていく。
この追悼ランで私が出した結論だ。
「これからも、Dの意思は生き続ける。」
そして遂にゴール直前の直線にたどり着く。
ゼッケンに手を当て、突き上げる様にDと共にゴールをした。
この一週間は何も手に付かなかった。
事あるごとに天を仰いでいた。
でもこのランで一歩だけではあるが、前に進めた気がした。
今までの感謝と共に追悼の誠を捧げます。
大変、お世話になりました。
そして、残された我々が、青山かけっこ団とSOUL RUNNINGを継承していきます。
e